在日中華圏人・
京阪神在住の法商務専門職又は事業経営者・
日本伝統庭園と室内装飾関連事業匠等
善隣交流倶楽部

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茶道その他伝統作法事始め     (華道、香道その他)

2023/12/18

茶道その他伝統作法事始め     (華道、香道その他)






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(要約)
・茶道については、当初、他の伝統作法に比し、古にその空間を愛した人とその良さを共有すること、茶道を含む歴史や道具や書画についての知識や美的感覚の習得など得るところが非常に大きいものと感じていました
・ただ今は、ネットで、他の作法では見当たらない無数のトラブル事例を知り、その世界に足を踏み入れることは、共稼ぎが当たり前の今の時代に、伝統作法を続けてきた(仕事とは無縁の)年配者の経済的かつ心理的な他者への優位性による干渉を受けることになり、ひたすらそれを受容していくという大変な覚悟がいるように思い、浅はかな考えを改めました。

(全文)

最後のジャンルの紹介となります。

ここの話も在日外国人へ(マイホームを都心のマンションでなく郊外の一軒家に求める話の中の内容と同様)日本人特有の心情として、プライベートでは、基本、価値観の合う人しか近づけず、そういう人以外の他人の干渉を好まず、その遠因は、自分の私的時間とは、日常の仕事その他で気を使っている日本人にとって、ストレス環境に立ち向かうためのとても大事なものであり、「活発な社交」と真逆の「平穏(リラックス)の環境とその維持」が最優先にされることが多いとの話題にもします。


最初に正直な話を申し上げますと、このジャンルにはながらくうがったマイナスのイメージばかりを持っておりました。

ただし今は、茶道については参加者の属性や心がけによりそれがすぐさまその人に(有益な教養を身に着ける)「善」になったり、逆に(それにより間違った優越感を引き起こす)「悪」になったりするものとの認識に至りようやく私自身が、一度はやってみたいという思いにかられるようになっています。(つまり現時点で私自身は入門前。)


まず華道の展示会に初めて行ったときにそこはまるで一門のピラミッド型の階級組織の披露の場であり、作品の大きさと陳列場所が完全に序列で決められていて、作品の出来栄えさえも序列の通りでもあるというようなものでした。組織内の心得として、「上の者へ下の者が敬う態度として、その製作物への評価として具現することは当然」との考えも理解し受け入れもしますが、日々のストレスはそこで解消されず、却ってその世界で増幅してしまうように感じました。
「序列は、研鑽によってそれを上がっていくことで門徒の励みになる」との説明も、そもそも(自由な創作が基本なクリエイティブな創作活動とは違い、真逆の)「格式というものを習得せよ」ということであっても、当然に、本人のセンスややる気により習熟度は個々で全く異なるはずなので、経験年数イコール作品の出来(手直しを何度も受けて実質はすべてが師匠の創作物のようになっているはずで)というよりも、長年皆が属するその組織を続け金銭面や労力面での貢献をしてきたことへのダイレクトな敬服や慰労でないと即軋轢を生むのでは?と思ったりするのですが、、

(伝統芸能(日本舞踏,(三味線、琴など)和楽器)であればバレエ、ピアノ教室の発表と同様、指導者が生徒に日々稽古をつけて、(和のものなら、準備などは役割があっても)発表自体は、その生徒の習得段階を皆が理解した上で一門「全く平等の仲間扱い」(我が強く鼻もちならない生徒は(お世辞や社会的地位にすぐ媚びるという品性でないまともな)指導者がそれを見抜けば巧妙に別の役目で厚遇をするふりをして実質的に中心からは遠ざける)の生徒達が主人公で行われ、指導者は黒子に徹し、そこで最後に行うリサイタルでもあくまで(指導者としての)「お手本」をしめすもので、自らの君臨の誇示になる過剰なものでは行わないものでしょうが、華道は真逆に感じられ)実際フラワーアレンジメントを教える側の方、習っている側の方、双方の多くが、過去に自らが経験した伝統作法の華道には大変にいろいろな点での窮屈さを感じて転向することになったことを口にされます。

そのこととともに若い世代よりは華道を新たにしようという人が少なく、華道が伝統作法では一番人口減少が著しいと知りました。
しかしただいま大混乱しています。
数日前この件に関して、ネットから情報を得ようとしたところ、華道については、トラブル事例がまったくヒットせず、膨大にヒットするのは、(アカデミズムより、そういったことが起こりにくく、だから人口の減少もより少ないと思っていた)茶道の方で、ハラスメント(指導者同士(特に上下間)、指導者と門徒)、免状の度の道具の購入における多額の費用負担、茶会などでの陥れ(基本的なことをわざと教えず現場の衆人環境で皆に失態を目撃させ、草履を隠しまでして、(たとえそうでも、その場でそれを言うなど論外で茶席を台無しにすることになるという心理につけこむ)痴漢のような真似をしてもはや再起不能な汚名を着せたり深い裏切りでの傷を負わせるなどまで)、悠々自適の金持ちの見栄の張り合いや金持ちでないものへの疎外や皮肉嘲笑、指導者のそういうグループ(単なる生徒だけではなくて金銭や人脈その他でのパトロンであるためそうなるのは仕方がない)へのあからさまな贔屓、辞めるときの嫌がらせなどのトラブルの情報が無数に紹介されておりむしろ華道の方が、問題は少なく私は、まったく正反対の思い違いをしているのではないかとただいま入門をすることに大変な不安が生じ、迷いが生じています。
ある流派で家元に近い立場の方を通してその世界にあこがれは感じており、そことは違う流派をしてみたいと考えておりましたが、、、

茶道こそ、月謝以外に、道具などに費用がかかり、茶会の準備への参加もあり、選ばれた時間お金を持て余すことができる女性中心の社交の世界であり、そうではない者が、免状段位を得ようとする場合は、(入門時はそんなことがあるとは気づかせもしないぐらい間口が広いものとしても)それに必要な所作の習得を頑張るだけでなく、それらを踏まえながら、そういった大変な世界の指導者や同門の強者の要求にはすべて従い不興を買わず、ひたすら(時間、労力、金銭などの)献身および厳しい内部の掟も忍耐で乗り越えて、その流派のお墨付きを少しずつ与えられるものと相当な覚悟をもって臨まないといけない感じがします。
残念ながら多忙で時間もとれず、特別に所有のお金もなく、労働衛生面で考慮される、当然に習熟に時間がかかり、過度な集中力や緊張感の維持にも不適な状況の)すでに老化をした私には当然に越えられない壁(そればかりか、そこに入ったばかりに一生記憶から消せない負の経験も懸念)かもしれません。
せめて武道や囲碁将棋やビジネススキルのように、ある程度の段階を身に着けたら、「過去に何々流を何年やり初段、2級までは進んだとそこまでの習熟度があったが今はやっていないので忘れた」程度を名乗らせてくれたらいいのですが、ある期間習った人が自由意思で辞める場合にも、まるで宗教のように相当な威圧、軋轢を受けるようで、流派を離れたら門徒外としてそれも許されていないというなら、文字通りオールオアナッシングで、本当にその世界に一生帰依する方だけの世界で、生活優先に行動する我々一般人には、相当に厳しいです。


茶道に関しても、本来は戦国時代の(千利休のわび茶が、派手好きの秀吉好みと相容れないで対立した有名な話の) 頃は精神性に重きを置くものであったはずが、各流派がいろいろな所作の方式をその後に後付けで考え、おびただしい量での体系化がされて流派として厳格に守るべきと定めたもので、そのような流派でも違う形式に過ぎないものの習得に膨大な時間労力暗記力を費やすことは、実用資格取得や自分で楽むための楽器独学等に比べて全く無意味と感じ、「現代の茶道とは原点回帰で、形式は一門の証としての3年程度のものに戻し、むしろ莫大な労力は(最低限、「形式を身に着けることで自らが勉学や労働もしないで高尚になったと思う愚か者は流派にとって恥、悪、背信であるとするような)精神修養や明確な段位を設けてアカデミックに(他の流派にも敬意を持ち、茶道文化や歴史や一流派に属しているからこそ、門外漢はとてもかなわず、さすがと言われる豊富な)教養の習得中心に費やすべきではないのか」と考えておりました。



またその考えに一層拍車をかけたのはヤ〇ーの知恵〇で(今は学校、社会の落伍者たちがその鬱積を個人攻撃ではけ口とし、昔の識者のサロン的の面影も全くなくなってしまった残念なサイトですが)実はサイトがおおむね健全にサロン的な運営がされていた当時でも、鉄道、アニメに劣らず、茶道のカテゴリーでも、その心得があるという者たちの(関心をもったので投稿をした)質問者に対する回答での(どぎつい言葉であからさまに馬鹿にする)「攻撃」はそれは、ひどかったです。

また知人とは、所詮はそれが職業上の専門性の高いスキルとか(スポーツ、囲碁、将棋など)競技会で公明正大に個人の能力が評価されるものとは全く違う「作法」に過ぎないから、負の面を併せ持つのではないかとの話になります。


それとは別に(古陶を作陶する陶芸家や日本茶、和菓子、生花などの製造、販売業の経営者など)関連業を営む男性の方々からは、「自らが扱うそれが茶の湯の世界においてどういうものかを体感するために、かつてそれを一度習おうと思い立ち、通ったこと(なぜか皆が例外なく一時期だけではあるのですが(笑))が本当に役立った」という話をよく聞きました。

考えるに、茶道は基本的に流派ごとで決まっている作法(動作)の段階的習得であるものの、他人を交えその茶席の空間を過ごしその趣を愛でた先人の思いまでをも共有する場でもあり、そこに自らの「君臨の誇示」目的で登場するなど現家元もしにくく、茶やお菓子などの飲食物の他、そこを演出する書画や花、家具やその他の調度、更には茶碗についての美意識や専門的な知識を得てでの解釈など実にすそ野が幅広く、有益な面が多い。

ただその反面、やはりそれも「作法」であることが災いして、自分が単に暇を持て余してそれを習ってきたことだけであるのに、免状を与えられる度に自分までもが宗家に準ずる高尚な存在になったと勘違いを起こし自分に酔いしれた上に、組織内の下位の者だけでは飽き足らず、習うことをしていないだけの外部の他人さえも(どんなにその人個人が(何もせず親から引き継ぐいだのではなくではなく)優秀で努力もして、それで得た社会的地位や経済的優位性をもっていることさえも眼中になく)所作を身に着けていない一点だけをもって、野蛮な存在と卑下した皮肉までも行う、そういった過去に、受験勉強や社会での経験も皆無?のため、そこで当然に感じるはずの劣等感、社会常識でさえ、いい年になっても持ち合わせず、自分と同類のものとしか対人関係を築けない者(主に主婦層?)が(鉄道、アニメと同様そこでしか自らの居場所がなく)えんえんと門下にとどまっていて、現実(関係者から聞く「実話」での幹部での派閥形成と対立抗争は、公民館のロビーの座談スペースでのお習い事レベルのおばさんグループ間のものと全く同じな下品で低レベルで、高尚さなど皆無(笑))も十分に心得ておかねばならないというのが現時点での習いもしない段階での私や仲間の「浅はかな?」推測です。


すでに伝統作法を始めた人のその作法を習うことでの喜びそして当初の予想に反し苦労していること、すでにおやめになった方のそうされたお考えや「想い」「経験」「実情」など忌憚なくお聞かせ願えましたら大変にありがたいです。
(入会にあたっては、電話での聞き取りの際、習っている作法は申告が必要ですが、所属流派については、必須ではなく、秘匿も結構です。フラワーアレンジメントもOKですが、いずれも本業としてお勤めや事業をなさっている方でその習いの経験3年以下は必須です)、また免状での昇進を目指されているのか、あるいはまったくそうではなく習いだけなのかの習われているご自身の立ち位置もお教えいただければと思います。


フラワーアレンジメント作品



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